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ララミー()は、アメリカ合衆国ワイオミング州の都市であり、オールバニ郡の郡庁所在地である。2010年の国勢調査で、人口は30,816人だった〔2010 Census 〕。ワイオミング州南東部のララミー川沿いにあり、州都シャイアンの西、州間高速道路80号線とアメリカ国道287号線が交差するところにある。 ララミーは19世紀半ばにそこでララミー川を横切ったユニオン・パシフィック鉄道沿線に開拓された。ワイオミング大学、ワイオミング工科大学およびララミー郡コミュニティカレッジ支部が本拠を構えている。ララミー地域空港が利用可能である。ララミー市ができる以前から存在した陸軍のサンダース砦の廃墟が国道287号線沿い、ララミー市の真南にある。スノーイー山脈とララミー山脈に囲まれたララミー渓谷にあるララミー市には、アウトドア活動の環境が豊富なので、アウトドアファンを惹き付けている。 == 歴史 == ララミーの名はフランス人あるいはフランス系カナダ人の罠猟師で、1810年代遅くにララミー山脈に入り、消息が絶えたに因んだものである。ジャック・ララミーはこの地域を訪れた初期ヨーロッパ人の一人であり、その名前が川、山脈、峰、アメリカ軍の砦、郡、およびこの市に与えられた。ワイオミング州内では、ジム・ブリッジャーに続いてその名前が多く使われている罠猟師である〔Parkin, Patsy, "Jacques LaRamie History" , 2000. Retrieved on April 14, 2008.〕。 ララミーは1860年代半ばに、オーバーランド・トレイルの駅馬車道と最初の大陸横断鉄道のうちユニオン・パシフィック鉄道が受け持った部分に近いテント村として設立された。1868年5月10日に最初の列車が町に入ったときには、起業家達がより恒久的な建物を建設中であり、間もなく店舗、家屋、学校および教会が造られた〔"Laramie History" Laramie Plains Museum. Retrieved on August 11, 2007.〕。 ララミーは当初無法地帯だった。初代市長M・C・ブラウンは1868年の半ばに、この町は「統治できない」と言って、大荒れの3週間後に辞任した。これは西部開拓時代初期のガンマンであった"ビッグ"・スティーブ・ロング、コン・モイアーおよびエース・モイアーの異母兄弟3人組から脅迫を受けたことが大きな原因だった。ロングはララミーの初代連邦保安官であり、その兄弟は「血の手おけ」という酒場を所有していた。3人組は開拓者達に嫌がらせを始め、その資産の譲渡契約書に署名を強いた。これを拒んだ者は誰もが大抵はロングに銃撃戦を挑むように仕向けられて殺された。1868年10月までにロングは13人を殺した。 しかし、オールバニー郡の初代保安官で牧場主のN・K・ボスウェルが「自警団」を組織し、10月28日に「血の手おけ」に乗り込んで3人組を捕まえ、通りを下ったところにある未完成の丸太小屋で私刑にした。他にも私刑や他の形態の脅迫が続いた後で、自警団が「無法分子」を減らし、形だけでも法と秩序を回復した〔"Chapter 3: Coming of Rails" Roberts, Phil (editor), University of Wyoming History Department, ''Readings in Wyoming History''. Retrieved on August 11, 2007.〕。 1869年、ワイオミングはワイオミング準州として組織され、その最初の議会が準州内の女性に政治的平等権を認める法律を可決した。1870年、ララミーの5人の女性が世界でも初めて陪審員を務めた女性となった〔 "Chapter 4: Establishing the Territory and Granting Women Equal Rights, Roberts, Phil (editor), University of Wyoming History Department, ''Readings in Wyoming History''.〕。またララミーは1870年9月6日にワイオミングで初めて市議会選挙を行った町となったので、アメリカ合衆国で初めて女性が政治的な投票を行ったところとなった〔。 初期の事業としては、圧延工場、枕木処理場、レンガ工場、食肉処理場、蒸留所、ガラス吹き工場、および石こう工場などがあり、鉄道の操車場もあった。1886年には発電プラントが建設された〔。1880年に設立されたララミー・ノースパーク・アンド・パシフィック鉄道・電報会社や、1901年に設立されたララミー・ノースパーク・アンド・ウェスタン鉄道を含み幾つかの地域鉄道会社がララミーを拠点にした。 1886年にフランシス・E・ウォーレン知事が署名した法によりワイオミング大学が設立された。ララミーがその場所として選ばれ、1887年に開校した。公有地認可大学法とも呼ばれるモリル法の条件で、1891年に農学部と実験施設が追加された〔"Fact Book: Historical Highlights", University of Wyoming.〕。 1998年にワイオミング大学生、マシュー・シェパードが殺害されたことで、ララミーは世界的な悪評を得た。このことでゲイ憎悪に起因する犯罪に対して国際的な抗議を生じさせ、国中の運動の象徴になった。これはベルリン国際映画祭などで賞を得た戯曲かつ映画の『ララミー・プロジェクト』の主題になった。 2004年、ララミーは酒場、レストランおよびプライベートクラブなど閉じられた空間での喫煙を禁止したことでは、ワイオミング州でも初めての都市になった。R.J.レイノルズ・タバコ・カンパニーに一部資金を与えられた室内空気清浄条例の反対者達が即座に条例の撤廃を請願した。しかし、2004年の一般選挙と同時に行われた住民投票では有権者達がこの条例を支持した。反対者達は様々な不法性を言い立てて、裁判所に住民投票の無効を申し立てした。しかし、裁判官は反対者達が住民投票結果と条例に関わる重大な問題を示す責務を果たせなかったと裁定し、条例は2005年4月に効力を発し、現在まで続いている〔Laramie Smoking Ban Subject of Television Program Tuesday" University of Wyoming news release, October 16, 2006. Retrieved on August 10, 2007.〕。2005年8月、ララミー市政委員会は酒場やプライベートクラブでの喫煙を認める条例改正の試みを却下した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ララミー (ワイオミング州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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